子育てと私の人生と

今日はダメダメな一日だった。

朝は納豆ごはんと卵焼きをたっぷり食べてくれてやったー!となったのに、ごはんとお菓子で血糖値があがったのか、頭がボーッと回らなくて痛いかんじで、でも遊んで、お昼ごはんを作ったところへ夫が起きてきてDVD見せろとギャーギャーわめく子どもに心底嫌そうな顔をしてるのを見てポキッと心が折れた。

たぶん、だめな子に尽くす自分、ていう心情になってしまったんだと思う。

多言語家庭でまだ会話ができない子どもに夫はイライラ。夫は自分はノーマル、何か問題があれば相手が悪いが基本の人だからそうなってしまう。私は自分が悪いの人だから、子どもが話せないのは自分たちの努力が足りないからだと考える。ま、2人合わせてちょうどいい考え方になるのかな。

精神科医の著作によると、子どもに期待するのでなく子どもを毎日毎日笑顔にするのが親の役目とのこと。そうだなと思いつつ、会話ができない大変さ、子どもの生来の気性の強さ、乱暴さ、ハイパーさにヘトヘトになる毎日に、子どもが笑顔になればそれでいいでは私が持たない。ちょっと夫が子どもを邪険に扱うだけで、私もそうしてしまう。私が弱いのかな?意味の分からない喋れない劣った子、それに尽くすってなによ、って気になっちゃったのかなあ。障碍児の親はすごい、他人から、時には夫から、そしてそうなったのは母親のせいでは?っていう視線と態度と言葉の中で子育てしてる人も少なくないだろう。子どもが教えてくれることがあるから、親の責任感、が原動力なのかな。

うちはちょこちょこマイナスもあれば、夫が努力家で歩み寄ってくれる気持ちがある、親が元気で援助もしてくれる、子どもみ健康といいところもある、恵まれてる方だと思う。それでもそれで幸せ、なんでも耐えられるとは思えない。

なんだか、自分の弱さが原因な気がしてきたな。

あと期待の無さ。自分にも夫にも子どもにも期待してない。それだとなんでこんなに苦労しなきゃいけないのってなってしまう。期待っていうより、明るい確信、が適切かな。私の子育てでこの子は強く明るく人生を生きていける子になる。私の存在サポートで夫は思いっきり尊敬できる人たちと研究ができる学者になる。私は家族を支えられる収入を得て、エスノグラファーになる。自分のことだけじゃない、自分のメリットにならなくても行動ができる人になる。子育ても夫サポートも、なにが幸せかって私に愛をくれるからだよね、特に子どもは私がどうであれ私を大好きって思ってくれるから。これをメリットととは呼びたくない。愛し合える人たちはとても大切。愛されているから、またそれを必要としてる人にあげられる。良くすれば、その相手が愛を返してくれるまでになれば大成功。そういうことなのかな。